ガイドライン・提言

 

(登録:2003.04.17)

日本小児科学会倫理委員会報告

 

第2回日本小児科学会公開フォーラム「子どもの死を考える in kobe」
 

2003年1月13日、神戸国際会議場

 

座長まとめ

東京女子医科大学母子総合医療センター・日本小児科学会倫理委員会委員長
仁志田博司
兵庫医科大学小児科・日本小児科学会理事
谷澤 隆邦

 2001年5月5日の「子どもの日」に「小児の脳死臓器移植はいかにあるべきか」を主題に第一回のフォーラムが行われたのは、平成9年(1997)10月に施行された臓器移植法の附則第2条第一項に「施行後3年を目途に検討する」の文言が加えられているところから、見直しが近々に行われ、その焦点の一つが対象外とされていた「小児の脳死臓器移植」であると考えられていたからであった.その内容およびそのフォーラムに先立って行われた、小児科学会会員に対するこの問題のアンケート調査の結果を踏まえ、小児の特性及び人権に配慮して、小児も臓器移植法の対象とする事に前向きで対応する全体の意向が小児科学会誌にすでに公開されている(105(11):1250、2001).
 今回のフォーラムは、「小児の脳死臓器移植」の是非を論じる前に、この問題に関して現在の日本における小児の置かれている状況を理解する必要があるところから企画されたものである.特にこれまでの文化的背景から、家族が子供達と自分の死のみならず死そのものに関してどれほど語り合う機会を持っているか、さらには医療現場においても専門家として死に直面する子どもに、どのように対峙しているかさえ心もとないのが現状である.このような背景から、最近の大震災で多くの身近な命を失った体験を持つ方の多い神戸の地で、この問題を論ずることとなり、地元の杉本・田中両先生にその多くの労をお願いした.
 フォーラムでは、本誌に載せられている各演者の抄録にあるように、「小児の脳死臓器移植」云々よりは、死に逝く子どもの姿がそこに立ち会った方々の言葉で切々と語られ、子どもの死が成人のそれと異なった様相を示す事が浮き出されている.それは愛する者を失う慟哭のいわゆる「二人称の死」の死を越え、自分の一部も死んだと感じる「1.5人称の死」だ、と演者の一人が言った言葉のごとく、巷の医療現場で遭遇する淡々と死を見つめている姿ではないものであった.たとえ冷厳な合理的判断を迫られる医療者であっても、この厳粛な事実を忘れてはいけないことを強く認識しなければならない.
 参加者の一致した意見は、子どもの脳死臓器移植の必要性は十分に認識したうえで、現行法が15歳以下であっても十分な意思表示能力を持ちうる児童の自己決定の権利を奪っている問題点を指摘しながらも、その安易な改訂によって親権の名の下に子どもの尊厳が無視される危険に曝されるのに歯止めをかけなければならないという、子どもの権利を守る立場からであった.その為に何をなすべきかを論ずるフォーラムではなかったが、少なくとも「海外に子どもが移植に行くから日本でも」という短絡的な議論ではなく、こどもの権利を尊重しつつ救われるべき命を救う為には、今何をすべきかを真摯に論ずるフォーラムであった事は、たとえ長く苦しい道のりであっても正しい方向に進むべきという理念を再確認するものであった.
 このフォーラムの司会者として、子どもに関する専門集団である日本小児科学会がこの問題に取り組み続ける責務の重要性を新たにした次第である.

 


1.小児の権利と終末医療

細谷 亮太

 小児がんは治る病気として考えられるようになった.しかし、いまだに2~3割の患児は生命をおとすことになる.そのような子ども達に、われわれ医療者はできるだけ手厚い緩和ケアを行わなければならない.成人の場合に比べて、小児では本人へのケアのみならず家族に対する心づかいも重要である.そのためにも、医師、ナース、ケースワーカー、保育士、心理士等からなる医療チームの存在が望ましい.
【家族との話し合い】
 治癒は望み得ず、死は避けられないと専門医が考えたら、医療チーム全体で相談し、遅れることなく患児の家族にそのことを伝える.分かり易く、正確に情報を伝え、共感を持ち患児側の気持ちを聞く.その後、医療側が提供できる方策を示す.大切なことは患児側を勇気づけ、絶対に見放したりはしないのだということを伝えることである.そこでひとつのオプションとして緩和ケアが提示される.
【患児との話し合い】
 病名を含めて病気の説明をすることは我が国においても常識になりつつある.しかし終末期において予後の告知をするか否かは、まだ議論のわかれる所である.米国では患児を巻き込んでカンファランスを積極的に行っている施設もある.
【実際の緩和ケアのポイント】
 これを行うのに大切なことは次のことがらである.
 ・適確な出発点
 ・密なコミュニケーション
 ・ペインコントロール
 ・良いバランス感覚にもとづく処置
 ・家族のケア(死後も)
 小児科医、特に小児がん患児を治療している専門医は終末期ケア、緩和ケアについて十分な知識を持つ必要がある.

【略歴】
細谷 亮太(ほそや りょうた)
1948年山形県生まれ.72年東北大学医学部卒業.72~76年まで聖路加国際病院小児科レジデント.77~80年テキサス大学MDアンダーソン病院癌研究所、クリニカルフェローとして勤務.80年から聖路加国際病院小児科に復職、94年聖路加国際病院小児科部長.専門は小児血液・腫瘍学、小児保健など.訳書に『君と白血病』(医学書院)、『エリー』(保健同人社)、『チャーリー・ブラウン なぜなんだい?』(岩崎書店)など.学会活動は、日本小児血液学会評議員、日本臨床血液学会評議員、日本小児がん学会理事、財団法人「がんの子どもを守る会」副理事など.

 

著書に 『パパの子育て歳時記』(毎日新聞社)
『いのちを見つめて』(岩波書店)
『赤ちゃんとの時刻』(朝日新聞社)
『のびのび育児百科』(法研)
『小児病棟の四季』(岩波書店)など
『川の見える病院から』(岩崎書店)
『はじめての育児百科』(主婦の友社)
『ぼくのいのち』(岩崎書店)
『旬の一句』(講談社)

 


2.我が子の脳死・親(小児神経医)の気持ちと子どもの権利

杉本 健郎

 古い話と思われるでしょうが、親にとっては昨日の出来事である.1985年3月15日午後当時6歳の長男は交通事故後救急病院へ運ばれ、4日目に親の勝手な判断で人工呼吸器を止め心停止後の腎移植をした.この時の出来事を再現した1987年NHK特集の一部を再放映するなかで親の視点から以下の点を指摘した.?主治医の哲学を患者の終末医療に押しつけないで、?死に逝くものと家族の別れの場と時間を保障して、?移植とは無関係な死に逝く側の気持ちが理解出来る専門コーディネーターが必要、?臓器移植は親の悲しみを和らげる勝手な行為であった.子どもの終末医療を親の意見で決めて良いか、さらに子どもの意向なしに親だけの意見で勝手に子どもの臓器を取り出して良いか、であった.
 上記以外で現時点での子どもの脳死の課題を列記する.
 1)子どもにも自己決定の論理が貫かれるべきである.今「子どもの脳死・移植」を語るとき、「子どもの権利条約」(1994年批准)にもあるとおり、子どもの意見表明権を保障すべきである.ドナーだけでなくレシピエントになる子どもにも.病める子どもを相手にする小児科医からこの視点を訴える時である.
 2)昏睡の一部である脳死状態は確かに存在する.いそがなければ、正確に非可逆的昏睡=脳死状態の診断はできる.死に限りなくちかい「ノー・リターン」という概念で脳死状態があり、その状態での1週間は短いが、3カ月や300日の期間は短くない.さらに、米国での15年以上同状態が続いている事実は1985年の厚生省の討論(1週間で心停止する状態)とは全く異なる.慢性脳死状態(厚労省研究班では「長期脳死」)の病態をどう考えるのか.
 3)広い意味では「植物状態」も同様にノー・リターンである.日常診療でサポートしている中脳以上がほとんどない状態の超重度児者の多くは、確かにノー・リターンである.
 4)1985年の竹内基準(厚生省基準)は再検討の必要がある.小児脳死診断基準案(2001)には精度や症例数に問題がある.検討にたえる症例が前方視的研究ではたった11例にすぎない.もう一度、厚労省研究班で小児脳死の基準案の再検討をすべきである.もしくは診断基準案について小児神経学会や脳死・脳蘇生学会独自で前方視的研究を開始すべきである.

【略歴】
杉本 健郎(すぎもと たてお)
1948年生まれ.篠山市出身、三田学園から関西医大へ.小児科で神経を専門とする.
1985年長男死亡.1996~1997年カナダ・トロント小児病院神経科留学、同時に北欧・北米の障害児者医療、臓器移植の現状を視察.1987年から関西医大男山病院小児科勤務、兵庫医大小児科非常勤講師.

著書に 『着たかもしれない制服』波書房 1987共著・絶版
『剛亮の残したもの』朝日カルチャーセンター自費出版 1989共著
『北欧・北米の医療保障システムと障害児医療』かもがわ出版 2000
『医療的ケア・ネットワーク』かもがわ出版 2001共編著
『いのちキラキラ重症児教育』かもがわ出版 2002共編著
今春3月に「着たかも」の一部を含めて「子どもの脳死・移植」を出版予定

 


3.学校現場での「心と命の尊さのための『生と死の教育』」の実践と今後の課題

高木 慶子

1.今、なぜ「生と死の教育」か
 1)「生きている」ことの時間が希薄となった社会
 24時間営業するコンビニエンスストアなどにより空腹を、また冷暖房の完備により暑さ寒さを実感できなくなった.
 2)「死」を看取る体験が少なくなった社会(約90%が家庭外で死を迎える)
 本来は「生と死の教育」は家庭で体験的に学ぶものであったが、このような社会状況の変化により、学校現場での取り組みが必要となったのであろう.
 3)子どもによる犯罪が目立つ社会
 死が仮想的なものとなっている社会の反映でもあろうか.
2.教育現場での「生と死の教育」の実践と今後の課題
 1)1997年、神戸須磨区での小学生連続殺傷事件後、兵庫県と神戸市教育委員会はただちに「心の教育委員会」を立ち上げ、学校現場で「心と命を育てるための『生と死の教育』」を行うことを提言としてまとめた.それを受けて「兵庫・生と死を考える会」は教師たちが教育現場で使用できるための「生と死の教育」カリキュラムを作成し、それが実践されている現場を録画してモデルとなるビデオを製作した.また20002年12月には、第1回「実践事例発表会」を開催した.
 2)今後の課題

教育現場で「生と死の教育」を担当できる教師の養成が急務である.
現状は「生と死の教育」をどのように生徒たちに提示してよいのか、皆目理解出来ない教師たちが多い.それも当然である.教師自身が習ったことのない授業であり、今までは「タブー」となっていた内容であるために、きめ細やかな教師達への指導が大事である.
学校及び教師達の意識化の問題
例えば、総合学習の授業が教科の時間となってしまう現状で、折角「ゆとりと心の教育」のためにと考えられた授業時間が、そのためには活用されていない.
「生と死の教育」が日本中に普及するために、第一に、草の根的な動きとしてネットワークを作るために実践事例を多く発信することが大事なことと考える.第二に、各地の教育委員会及び校長は率先して生徒たちが「心といのちを育てる機会」が教育現場で多く与えられるように、努力する必要があるのではないか.
社会の価値観が変化することへの必要性.教育は社会の要求によって行われるものであるから.

【略歴】
高木 慶子(たかぎ よしこ)
熊本県生まれ.聖心女子大学文学部心理学科学.上智大学神学部修士課程修了.大学生リーダー養成所「コスモス会」・恵の園カルチャーセンター「教育相談所」・「キリスト者婦人の集い」を設立し、それらの責任者を勤め、神戸海星女子学院大学の助教授を歴任.現在英知大学教授、「兵庫・生と死を考える会」会長、日本ユニセフ協会兵庫支部評議委員、援助修道会会員.十数年来ターミナル(終末期)にある人々の「心と魂のケア」及び悲嘆にある人々(家族や親しい友人を亡くした人々)の「心のケア」に携わる一方、学校教育現場で使用できる「生と死の教育」カリキュラムとビデオを製作し、大人にも子どもにも理解出来る「いのちの尊さと大切さ」や「生と死の問題」「子育てに関する問題点」「人生の真の意義とはなにか」等幅広い分野で全国的にテレビや講演会などで活躍.また「子育て支援活動」や「男女参画社会支援活動」などでも活動中.
著書に 『死と向き合う瞬間―ターミナル・ケアの現場から―』(学習研究社)
『高木仙右衛門の覚書の研究』(サン・パウロ)<カトリック大学学術研究奨励賞受賞>
『大震災―生かされた命―』(春秋社)  『生きる』(春秋社)
『聖書によるキリスト』(サン・パウロ)  『希望へのかけ橋』(みくに書房)
『母の祈り』(聖母の騎士社)など

 


4.若きいのちとこころへのメッセージ

額田  勲

 最近、少年Aの問題をはじめ若き世代の凶悪犯罪の多発が社会的不安をかきたてているが、それらは単に個別犯罪者の精神心理の異常を超えて、日本社会の生命軽視の風潮、死生観の揺らぎともいうべき傾向と無関係とは考えられない.日本人の精神的な秩序ともいうべき伝統的な死生観を一言で概括するようなことは容易でないが、少なくとも国際的な趨勢に逆行してなお死刑制度を頑なに支持してやまないこの社会においては、死は独特の重い規範として位置付けられてきたというべきである.しかしながら、
 ・生命の死が簡単に復元されるテレビゲーム感覚が横行する高度情報社会
 ・人の死ぬ場所も効率的な病院に集中、死が人々から次第に隔離された高度管理社会
 ・優勝劣敗の法則下、社会的不適応者の虫けらの死というような市場原理(競争)社会
 ・人間の連帯が極端に脆弱化した少子高齢社会
等々、数多くの要因が相乗して死生観は揺らぎ、いのちの軽さは際立ってきたかと思われる.たとえば昨年11月末、熊谷市での3人の中学2年生によるホームレスへの暴行殺害などは象徴的な事件といえよう.
 当然、こうした社会状況におかれた若き世代に対して「いのちとこころの教育」がキーワードとして頻用される.だが、生と死の人為的操作を可とする高度技術社会の先端医療の多くはそのことと整合しうるだろうか.例えば脳死論争の慎重派の論理には日本社会の死生(価値)観が多面的、重層的に表現されているが、脳死移植はそれらを科学主義的に画一化していくことに他ならず、すなわち前者の「いのちの倫理」が後者の「生命の倫理」に一元化されるにおいて、若い世代の生死観の衰退、分裂は避けようもないであろう.

【略歴】
額田 勲(ぬかだ いさお)
1940年神戸生まれ.京都大学薬学部、鹿児島大学医学部卒業.80年より、神戸みどり病院院長.89年より、神戸生命倫理研究会代表.
終末期医療のあり方、脳死・臓器移植など先端医療のあるべき姿、災害医療と人間疎外、現代日本人の死生観など、今日の生と死をめぐる問題に関して、第一線医療現場の視点から問い続けている.

著書に 『いのち織りなす家族』(岩波書店)
『孤独死』(岩波書店)
『終末期医療はいま―豊かな社会の生と死』(ちくま新書)
『20世紀の定義、生きること/死ぬこと』(共著、岩波書店)
『脳死移植の行方』(共著、かもがわブックレット)
『脳死と臓器移植を考える』(編著、メディカ出版)
『脳死と臓器移植に関する十二章』(共著、兵庫県部落問題研究所ヒューマンブックレット)など

 


指定発言

1.息子の腎臓は生きていた!

吉川 隆三

 当時5歳だった長男の忠孝が突然、ギャーという大きな泣き声と共に私達は飛び起こされました.その後、激しい嘔吐と発熱に襲われすぐに掛かり付けのホームドクターに見てもらったのでした.そして、そのまま豊橋市民病院へ直行しました.1984年9月3日の朝が白々と明けてきました.私達が救急救命のナースステーションに通されたときに、目に飛び込んできたのは忠孝の「脳動脈瘤破裂」の脳出血を写し出したCT写真でした.
 ICUから一般病棟に移され七日間の闘病生活が始まりました.私自身もショックから熱発、四日目には急性肺炎で入院させられてしまいました.医師からの死の宣告を受けてしまった私はどうしたら息子を救うことが出来るのかをベットの上で頭を巡らしていました.その時に頭を過ぎったのは、その年のお正月に豊橋北ライオンズクラブの献眼・献腎登録の呼びかけに登録をしたのを思い出し「人様の体を借りて忠孝の小さな腎臓を活かしてやれるのではないか?」と私達から臓器提供を申し出ました.その時点では私達の頭には「社会貢献」とか「患者さんを助けたい」とかを考えた訳ではありません.息子の小さな腎臓が何処かで人様の体を借りてでも生きてくれればという気持ちで臓器提供を申し出たのです.
 当時、私達は「美談」として大きくマスコミ取り上げられてしまいました.そのことが後々私達を苦しめることになろうとは思いもしないことでした.なぜなら私達は「善意」で決断をしたわけではないからです.息子にとって「良かれ」と思って決断したからです.息子の「意志」を確認することなく、親の勝手で決断したことに親としての「責任」に心が揺れ動いたのです.果たして子供は受け入れてくれているのかと.このことが自殺しかねないほどまで陥れてしまったのでした.でも、知人により「知る幸せより、知らない幸せ」を教えられ立ち直ることが出来ました.80年代の移植事情は今のようではなく、厚生大臣(当時)からの感謝状一枚で、後のフォローさえなく、ドナー家族が悩んだり、苦しんでも行政からも医療側からも、何のフォローもなく「ほったらかし」状態に置かれていました.最近やっと移植コーディネーターが「サンクスレター」制度がドナー家族を少しは癒しているようです.99年に(社)日本臓器移植ネットワークが「ドナーファミリーの集い」が切っ掛けとなり、2000年ドナー家族がドナー家族を支援する「日本ドナー家族クラブ」を結成し活動を始めました.
 吉川家に転機が訪れたのは99年の春のことでした.臓器移植法成立後、初の脳死判定と移植が高知赤十字病院で行われ、私達は地元のテレビ局の取材を受け、ドナー家族の思いを語ったのでした.そのニュースを見たという視聴者から「十五年前に腎臓の提供を受けたものです.元気でいるとお伝えください」と、テレビ局を通じて連絡して来ました.「忠孝が生きていた!」妻と私は、その一晩中泣きあかしました.99年は吉川家にとって最高の年となりました.
 同じドナー家族であるノンフィクション作家の柳田邦男さんとのおつき合いが息子の生きた証を残してやりたいという思いを何かの形で残せればということから、柳田さんのお力添えを得て手記の執筆に取りかかったのでした.この本を読んだ読者から「ドナー家族の苦しい心情がひしひしと感じられ、感動しました」とお礼の手紙も頂きました.何か、やっと息子に残すものが出来たと思っています.

【略歴】
吉川 隆三(よしかわ りゅうぞう)
1949年瀬戸市生まれ.現在タクシー運転手として福祉タクシーに乗務.1984年当時5歳だった忠孝君が脳死状態になり、心停止後腎臓を提供.ドナー家族の心のケアとサポートを目的とする「日本ドナー家族の会(JDFC)」を設立する.
著書:『あぁ、ター君は生きていた―15年待ち続けた息子との“命の約束”』 河出書房新社2001

 


2.子どもが生きるということ…

木村 宏美

 守る会の会員の子どもたちの多くは生まれながらに心臓病をもっている、「先天性心疾患」といわれる病気で、少子化といわれる現代でも発症率はほとんど変わっていないそうです.医療技術の進歩はうれしいことで、治療が不可能とされた病気が治療できるようになり、多くの子どもたちが社会生活をおくれるようになりました.子どもの成長とともに生命の尊さを感じるとき、その陰に泣いた子どもや親がいることを忘れないようにしたいと思います.
 平成9年10月に「脳死からの臓器移植に関する法律」が施行されてから、日本でも脳死からの臓器移植ができるようになって、この5年間で23人の方がご自分の意志で臓器移植でしか助からないとされた患者に、いのちのリレーをしてくださいました.おかげで社会復帰をあきらめていた人は生きる希望がわいて、目の前が明るくなるに違いありません.けれども今の日本では15歳以下の子どもたちは臓器提供ができないことになっています.その結果心臓移植でしか助からないという子どもは、毎年何人かが海を渡ってアメリカに行っています.それには何千万円という膨大なお金を必要としますから自分で準備できる人はなく、募金に頼り、危険を冒しての海外渡航になります.もちろん子どもを助けたいと願っても、支援してくれる人たちが動かなければ不幸にして命を落とすことになるかもしれません.それも運命とあきらめなければいけないのでしょうか.
 私たちは子どもたちが生命の危険を背負いながら海外渡航しなくてもいいように「小さな子どもたちが国内で移植が受けられるように、法律の改正してください」と、運動を継続し、一日も早く子どもたちが日本で移植手術が受けられるように願っています.

【略歴】
木村 宏美(きむら ひろみ)
全国心臓病の子どもを守る会 兵庫県支部 支部長
全国心臓病の子どもを守る会は1963年11月発足.初代会長梅崎栄幸夫妻が、こどもの手術目的で訪ソ.手術はできなかったが、その報道をきっかけに、結成された.医療費助成制度を作り上げ、更生医療、小児慢性特定疾患治療研究事業、特別児童扶養手当、障害年金制度などの対象とする.親やこどもたちの思いを理解しあい、生命の大切さを共有し、生きていく元気を分かち合うのが、活動の原点.

 


3.子どもの死のさきに見えてきたもの

坂下 裕子

 その荒れた公立中学校がしたことは、教科の時間をやりくりし、2年通して生と命を感じるための授業に取り組むことでした.私が頼まれたのは、「我が子の死を通して」の話です.それまでに出会ったご遺族200名くらいの記録を作っていましたので、自分を含む何名かの母たちの死別体験を語ることにしました.ここには「命は大切にしないといけない」という教訓めいた言葉は含みません.短い命をどんなふうに生きた子どもがいたか、その子をどう愛し、その死をどれほど嘆く母がいたのかの実話だけです.生徒たちは、全員が微動だにせず、体で聞くように話を聞いてくれました.どの子が非行しているのか、まったく区別がつきません.このときはっきりと思いました.幼い命がものを語る.もういぬ子たちが人の心を動かしている.子どもの死は個人的な事象に終わるものではないのだと.
 急性脳症の会を作って4年が過ぎようとしています.元気な子が突然亡くなるなどすると、親たちは現実を受け入れることができず、何年も子の名を呼びつづけます.生涯この悲しみを「乗り越える」ことはできないでしょう.こうした会の役割というのは、溺れるように悲しみの底にいる家族を支えることに始まり、その先を生きていく意味を見出す場でもあります.家族にとって子どもの死は終わりではありません.いかにその子と共に生きることができるかが心の回復につながっているのを感じます.けれども長く険しい道のりが立ちはだかっています.支援はネットワークのように存在しなければ機能しないことを感じ、昨年7月、グリーフケア研究会を組織しました.看取りに関わる医療職から遺族と直接接する職業(教師など)まで、現在100名が登録し、情報交換しています.本来の仕事の合間を縫うようにして、子どもを亡くした家族の痛みをおもんばかる人たちの姿に、胸を熱くするとともに、最後に人を救えるのは人しかいないことを教えられています.

【略歴】
坂下 裕子(さかした ひろこ)
1961年兵庫県生まれ.
インフルエンザ・脳症の会「小さないのち」代表.
グリーフケア研究会事務局.
日本小児科学会、日本音楽療法学会会員.

著書に 『小さないのちとの約束―小児救急医療の充実を求めて―』
『天国のお友だち―親と子どもと小児医療―』(コモンズ)

 


主催者のまとめ

大阪医科大学小児科・日本小児科学会倫理委員会委員
田中 英高

 本日、シンポジストの方々は大変に貴重なご発表を頂いた.心から感謝申し上げる.皆様の発表を聞いて感じたこと述べさせていただきたい.
 それぞれの方が先立たれた子どもに対して、いつまでも尊い思いを持っておられる、そして、それは単に肉体、身体が尊いのではなく、その肉体の奥にあり、目に見えないものではあっても本当に尊い存在を感じておられる、と強く胸に響いた.そしてそれは、単に子どもとの思い出という過ぎ去った過去の出来事ではなく、永遠に生き続けるような存在を、どの方も心の奥深くで実感されているのでないかという思いを持った.その心の奥深いところにある存在、永遠に生き続ける何かを、人によってはspirituality、霊性、と呼んだり、もっと端的に魂と呼んだりする人もいるであろう.あるいは、そのような言葉では言い表すことができないものかもしれない.
 しかしそれが、まさしく、「いのち」と「いのち」のふれ合いであり、人として生まれた私達が最も大切にすべきものであり、尊重すべきものであると思うのは私だけではないであろう.これが子どもの死、いや、人の死を、そして人の生を考える「原点」である.
 今の医学は、これの原点を忘れているように思う.忘れているというよりも、我々医者自身がそのようなトレーニングを受けることがなかった.そして傲慢にも人の命を預かっているのだ.肉体だけしか扱わない、身体だけしかみない唯物論的な医学は、野蛮であり、時代遅れと言わざるを得ない.
 これからの時代は、今までのように医者しか扱えないような古い医学を越えて、「いのちといのちのふれ合い」の中で、人々を本当に幸福にすることができる新しい医療が必要とされている.医学の枠を越え、幅広い分野で多くの人々と交わりながら、人のため、自分のための「死と生の医療や教育」を創り上げていく、まさにその時なのだと強く感じた次第である.
 本日は多くの方々にお集まり頂き、第2回公開フォーラムの世話人を代表してお礼申し上げます.

 

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